はじめまして!
管理人のゆきと申します。
こちらでは、このブログを始める経緯となった、私の半生についてお話しさせていただきたいと思います。
基本情報
名前 | ゆき |
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誕生日 | 1985年11月生まれのアラフォー |
仕事 | デザイナー、コーダー、鍼灸師 |
性格 | 性格発達障害(ADHD、ASD)/ぽんこつ / 社会不適合者 / マイペース / 好奇心旺盛 / ミーハー / たまに周りが驚くような行動力を発揮するw |
趣味 | ネットサーフィン / 美味しいもの・食べたことのないものを食べること / 旅 / youtube鑑賞 / ショッピング / k-pop(ちょいかじり) |
好きな食べ物 | シナモン / チャイ / ミックスジュース / 洋菓子 / 和菓子 / 旬の食べ物 / いろんな地域や国の料理←要するに食べ物なら苦手なもの以外だいたい何でも好きw |
苦手な食べ物 | 青ネギ(キューピー人形の匂いの味がするからw) / パクチー(左に同じ) / 生玉ねぎ / 刺激物(辛い・苦い・酸っぱ過ぎる物etc.) / 炭酸飲料 / アルコール |
モットー | これでいいのだ! / 人生は全部ネタ😂 / 上善水の如し |
幼少期
人生早々から自己肯定感の育成に失敗
人の気持ちがわからず、空気も読めず、片付けが壊滅的にできない父と、
キレイ好きで仕事もできるが沸点の低いヒステリーな母の元、
3姉妹の長女として私は生を受けました。
父は大阪の田舎の小さな電器屋さんの二代目で、
母が家計簿をつけて日々のやりくりしてくれているような、
そこまで裕福な家庭ではなかったと思います。
2、3歳で物心が付き始め、周りの様子がわかり出した頃、その後の人生を左右する衝撃的な出来事がありました。
一緒に住んでいた祖父が、他の人に「本当は男の子の孫が欲しかった」と残念がっているのを聞いてしまったんです。
「自分は望まれた存在ではない」
それから約30数年間にわたって、私はその思い込みをベースに生きることになります。
その後すぐに妹も生まれ、母の愛が自分に注がなくなったという被害妄想による不足感から、その思い込みはさらに強化されることとなりました。
幼稚園ですでに黒歴史
幼稚園に入ると、周りの子たちと比べられるようになりました。
「もっと普通にしてよ!恥ずかしい!!」
私は集団行動が苦手で、周りの子が”普通”にできていることができなかったので、母からはいつもそのように怒られていました。
例えば、私の”普通じゃない”ところとしては、
私は制服の冬用の上着を着ることができませんでした。
それは元気に動き回ったりして暑いからではありません。
上着を着た時の感覚がどうしても苦手だったんです。
なので冬でも、半袖と半ズボンで凍えながら過ごしていました。
(今だからわかるのですが、それは感覚過敏の症状だったと思います)
また友達がほぼいなかったので、誰かと仲良くなりたくて、お昼休みに1人で掃除をすることにしました。
掃除時間でも何でもないし、掃除も嫌いなのにです…!笑
当時はそれが、友達ができるきっかけになるんじゃないかと真剣に捻り出した苦肉の策だったんです。
今にしてみれば、そういう奇妙な行動こそが余計にクラスに馴染めない原因のひとつだったのかもなと思います…笑
「どうしていつも私はひとりぼっちなんだろう…。どうしたら解決できるんだろう…」
結局同級生たちに気持ち悪がられ、悲しみのどん底で悩み苦しみながら掃除し続けた暗黒の幼稚園時代でした。
小学生時代
自傷グセと体調不調
小学生では自責グセがさらにエスカレート。
- 誰に何も言われていないのに自ら教室の後ろに立たされに行く
- 冬の寒い廊下に自主的に土下座をして、朝のホームルームをしに来る先生を待つ
- 自分で自分の頭を壁にガンガン打ち付けたり、体を叩いたりと自傷行為をする
- 「わ゛ーーーん゛!!!ごめ゛ん゛な゛さ゛い゛ーーー!!😭」と勝手に自分を責めて泣き喚く
…などと、先生を散々困らせました。
そんなズタボロの精神状態なので、小学校2年生からは日常的に胃痛に悩まされるようにもなりました。
その痛さは歩けない程で、保健室に行くこともままならず、教室の床や椅子にうずくまってウンウン唸っていることもよくありました。
病院で検査もしましたがどこにも異常はありません。
完全に自責によるストレスだったと思います。
家庭内別居
小学生4年頃からは、両親の家庭内別居が始まりました。
原因は、父の「自分以外に一切興味のない性格」と「家をゴミ屋敷にする性質」が母の我慢の限界に達したことでした。笑
これまでも私は、普段からヒステリックな母の逆鱗に触れないように気を遣って暮らしていました。
本来は憩いの場であるはずの家が、両親が家庭内別居したことによって、さらに緊張感が張り詰める悲惨でくつろげない現場となったのです。笑
「よくあんなのと話ができるよな。気持ち悪!」
私が父と話すことがあると、いつも母にはこのように言われていました。
そのたびに自分の存在の半分を否定されたような気がして、悲しみで胸が締め付けられました。
中学時代
記憶が…ないw
私はそのまま地元の公立の中学に進学しました。
それぐらいになると私の奇行は多少マシになりw、
「普通のことができない変わっている子」として、
一生懸命に周りに話を合わせ、
しょうがなく仲間に入れてくれる友達の優しさに取り入って過ごしました。
さらにその中学校は不良がたくさんいて、
毎日どこかの窓ガラスが割られ、
廊下をバイクが暴走し、
顔の真横を爆竹が飛び交うような大変荒れたところで、
ただでさえ安心できるような環境ではありませんでした。
そのような感じなので、中学時代の楽しい記憶はほぼなく、
死んだように生きていました。
高校時代
黒歴史の上塗り
高校では、会話の輪の中に入れてくれ、
遊ぶ時には私のことも誘ってくれる、
仲のいい友達たちができました!
でもでもそんな夢にまで見た優しい友達たちと
ワイワイギャーギャー楽しく過ごしていても、
心のどこかでは「どうせ私なんて…」といじけ、
「お先真っ暗。このまま生きてても希望も何もないよなぁ…」という
自己肯定感の低さや絶望感は一向に改善されません。
それは自分でも不思議でした。
むしろ、そんな友達たちの可愛さや頭の良さ、会話のおもしろさや社交性の高さなどと自分を比べ、
ますます自分自身で自己肯定感を下げ、
一緒にいればいるほどツラくなっていきました。
「自分は生きてるだけで周りに迷惑をかけている」
そう感じ、これ以上迷惑をかけないためにと自殺しかけるところまでいきました。
その時は幸いにも、私の異変に気づいた友達に止めてもらえました。
高校の友達には感謝しかありません🙏🏻
一切ついていけなかった勉強
自己肯定感が上がらなかったまた別の要因としては、
勉強についていけなかったことも関係していたと思います。
私は高校生活が始まって早々に勉強についていけなくなりました。
基礎がガタガタなので、
いくら自分なりに頑張ってテスト勉強したとしても、
全然結果につながらず赤点を取るのが普通。
ずっと学年で下から数人目をキープという散々な成績でした。
3年生になると、
同級生たちが受験の猛勉強のストレスで
禿げたり、血を吐いたりしている中、
私はとりあえず塾に通わせてもらって、
あとはただひたすら睡眠学習をする生活でした。
当時、どれだけ私が勉強していなかったかがわかる塾でのエピソードとして…、
英語の先生が他の塾生たちの前で私を指さし、
「こんなヤツみたいになるなよ~!!!」と
血祭りにあげられることが度々ありました。
また日本史の先生は、授業中に
「ここまで勉強しないヤツは前代未聞だ!こんなヤツがいる塾なんか辞めてやる!!!」と
突然ブチ切れ、
みんなが必死で先生をなだめる…、
というようなこともありました。
けれども私の頭おかしいところは、
そんな状況でも頑なに教室の一番前の特等席を離れなかったことです。笑
(その根性だけは唯一、最後の最後に先生に褒めてもらいました😂)
それにしても塾に通わせてもらっておきながら、
勉強しないという
お金のドブへの捨て具合はすごかったですね。笑
今思うとほんと両親に申し訳ないです。
その後、大学は奇跡的にギリギリ滑り止めの学校に入学。
大学時代は、お気に入りの教授を見つけ、教授室に入り浸りの日々を過ごしました。
こうして私は幼少期の頃から自己肯定感の育成に失敗し、いつも孤独感が付きまとったままで大きくなっていったのでした。
社会人時代
社会に馴染めない苦しみ
さて大学卒業後に待っていたのは就職問題です。
当然のこと、同級生のほとんどは一般企業に就職しました。
ただ私の場合は、絶対に会社勤めは無理だという自覚があったので、普通に就職することをハナから諦めていました。
そして何を思ったか、手に職を付けようと全く未経験だったミシンを使ってズボンの裾上げをする仕事に就きました。
そこはゴリゴリの職人の世界。
同時に1分1秒を争う戦場でした。
案の定私は全く使い物にならず、勤務1ヶ月で早々に当時の店舗の統括マネージャーに嫌われ、これまで通勤時間片道15分だった店舗から約1時間の場所に左遷されました。笑
もちろん左遷先でも使いものになるわけはなく…。
「どうして私はこんなに失敗ばかりのダメな人間なんだろう…」
いつもと泣きそうになるのを堪え、無理に笑顔を作って接客していました。
何とかズタボロの精神状態をポジティブに捉え直そうと自分なりに頑張ってはいたのですが、心と体の疲弊はリカバリーしきれません。
いつの間にか笑えなくなっている自分に気づき、悩んだ末に「やっぱりこのままでは自分の心が壊れて取り返しがつかなくなる」と思ってお仕事を辞めました。
仕事が続けられない…!
次に就いたのは、大衆温泉浴場のリラクゼーションセラピストでした。
自分自身が幼少期からのストレスによる体調不良があったので、
心と体の関係に興味があり、素人なりにではありますが勉強はしていました。
なのでセラピストの世界には興味がありましたが、
医学部などを出たわけではないので、
そんな私が人様の体に関わらせていただくなんて畏れ多いと思ってずっと尻込みしていたんです。
けれどもやはり心や体と関係のあるお仕事がしたいという想いが年々強くなり、
ミシンのお仕事の時と同じように
これまた未経験でセラピストの世界に飛び込みました。笑
自己肯定感は低いくせに謎の行動力をたまに発揮するんですよね。笑
手技の修行を3ヶ月でなんとかクリアし、
いざセラピストデビュー✨
やっとお客さまにサービスをご提供できた喜びはひとしおでした!
けれどもリラクゼーションセラピストのお仕事は体力勝負です。
施術時間は長いものだと120分程のコースがあり、
何時間もずっとお客様のお身体を揉み続けるのは私の体力では無理でした。
なのでそこも結局1年続かずに辞めてしまいました。
仕事ができない…!
その後もいろいろな職を転々としました。
私がこれまで転職した数は約30種類にも及びます。笑
自分に完全に向いてないと思うお仕事、結構好きなお仕事などさまざまでした。
仕事の例でいえば、コンビニの店員、パン屋さん、家電量販店の販売員、ホテルの給仕係、ユニク○店員、ファミレスのウェイター、市役所の事務、古文書の撮影係、デザイナー、鍼灸整骨院の施術助手などなどです。
基本的にはどこに行っても、みんなが当たり前にできることができなくてミスを連発し、周りの人たちに迷惑をかけまくり辞めざるを得なくなるというパターンの繰り返しでした。
私の場合、マルチタスクが必要な仕事ほど迷惑のかけ方が破滅的でした。笑
そのため、いくつかの職場では「ポンコツ」と呼ばれ、
退職を勧められたこともクビになったこともあります✌️笑
人生最大の宣告!
「流石におかしいと思うから、精神科に行った方がいいと思うで」
仕事を転々とする中、ついにある職場で、あまりにも仕事ができない私に呆れた上司から言われた言葉です。
(上司も悩んで色々原因を調べてくれた結果の発言だったみたいです🙏感謝)
元々自分でもどうも普通じゃないと感じていたので
病院で検査してもらうことになりました。
その結果、
発達障害という診断をいただきました!
(※発達障害の方がみんな仕事ができないというわけではありません。
流れ上、誤解を招くような表現をしてすみません🙏💦)
発達障害の診断が出たことは自分でも納得でした。
「もう自分を責めなくていいんだ…。」
診断の帰り道、ずっとしんどかった苦しみから解放された気がして涙が滲みました。
心からホッとしました。
なぜならこれまでずっと、ミスをしたら自分なりに原因を考えて対策をすることを繰り返してきたんです。
ありがたいことに周りの方々が協力してくれることもありました。
なのに、なのに!!
誰しもの想像を超える更なるミスをやらかすんです…😭
自分でもどうして、今どき小さな子でもしないような、ありえないミスを連発してしまうのかがわからないんです…。
人智を超えた力が働いているとしか思えません。笑
そんな風なので、
頑張っても頑張っても一向に成長している感じがなく、
できない自分をひたすら責めていました。
でもそれらは元々の脳の機能的な問題であって、
私が努力や根性が足りないんじゃなかったんだとわかったことは
やっと心から自分を許せる大きなきっかけとなりました。
(もちろん、だからといって一才努力しなくていいわけではなく、そんな自分の特性を理解した上で対策が必要なことは理解しています)
私が特に苦手なことはこんな感じです。
- 毎日決められた時間に決められた場所に通えない
- 事務的な作業でミスばかりする
- 空気が読めずに場を凍らせる
- 相手の意図を察することができず、指示通りに仕事ができない
- 臨機応変な対応が苦手
- 優先順位がつけられず効率が悪い
- ザワザワしている場所だと集中しにくい
- 違う業務と業務で切り替えるのが苦手
ただこのように苦手なこともありますが、
逆に得意だったり好きなこともあって、
それは…、
- 好きなことにじっくりと取り組めること
- 問題の本質を探究すること
です!
これなら飽きずにずっとできます!笑
ちなみに診断を受け、自分をだいぶ許せた後も、幼少期からの「自分は存在している価値のない人間だ」という思い込みは残ってはいました。
それに関してはその後、心と体の学びを深め、自分で根気強く修正していった結果、今では自分を抑圧することなく、飾らないそのままの自分で生きられるようになっています😃
フリーランスとして独立
嘘のような開放感!
自分の弱みと強みに改めて向き合った結果…
「もう私にはこの道しかない!」と一念発起し、これまで培ってきたわずかなスキルをかき集め、
デザイナー兼ホームページ制作者(コーダー)として2021年に独立しました!
あの生きづらかった感覚が嘘のように軽やかに✨
独立して何よりもよかったのは、
これまでずっとあった生きづらさがなくなり、心がとっても軽やかになったことです!
お勤め時代は、自分でも予想だにしないミスを連発し、
周りに尻拭いしてもらい、多大なるご迷惑をおかけしてしまう自分が情けなくてしかたありませんでした。
でも自分でお仕事をするようになったことでそれらの悩みはほぼなくなりました。
もちろんミスが完全になくなることはありませんが、失敗しても自分で責任を持てるので、無駄に自分を責めることがなくなり、精神的に安定してとても充実した日々を送ることができています。
次のステップへ
さて生きやすさの問題は解決しましたが、実はもうひとつの課題があります。
それは収入面のことです。
フリーランスは、人の役に立つ希少なスキルさえあれば、正直収入は青天井です。
でも私は大したスキルがあるわけではないので、いつ仕事がなくなっても不思議ではない不安定な状態なのです。
なので独立後はスキルを磨き、収入を安定させるために、いろんな講座を渡り歩きました。
デザイン、SNS集客、ブログ集客、ライティングなどなど…。
講座の価格は数十万円から100万以上するものまで様々でしたが、実際に受講してみると、アウトギリギリの方法を教えられたり、ただただ行動しろとしか言われず「やらないやつが悪い」と切り捨てられたり…。
また、応用の効かない当たり障りのない薄っぺらい知識しか教えてくれなかったりと、残念ながらそのほとんどが小手先のテクニックや根性論で、本質から学べるところはありませんでした。
Webマーケティングのスキルがあれば、あらゆる人のお役に立てて、さらに収入もUPできる!
スキル磨きで迷子になっていた私は最終的にこの結論に辿り着きます。
私は元々、問題の原因を探究し改善することが好きで、
これまでも、お客さまの事業が発展するための改善案を勝手にご提案したりしていました。そしてある時、私がこれまで学んできた講座の内容すべてを極めた究極系が「Webマーケティング」というお仕事だと知ったのです。
Web時代の今、Webマーケティングは必要不可欠なスキルとされています。
けれども、マーケターの数は不足しているのが現状。
つまりWebマーケターというのは、現代のあらゆるところでお役に立てて、かつ大変需要のある希少な存在なのです!
自分の特性に合ったお仕事で、今以上に様々な方のお役に立て、さらに収入も増えるのなら、こんな嬉しいことなくないですか?
そのような訳で今、私自身が今後フリーランスとしてますます自分らしく自由に生きていくための有効なスキルとして、Webマーケティングの勉強をしているところです。